(2022年11月19日)
11月19日(土)、本学学生の保護者の方を対象に、「天皇陵を抱いた、河内の中心地〝高屋城″」をテーマにアカデミックツアーを開催しました。世界文化遺産に登録された古市古墳群や応神天皇陵とゆかりの誉田八幡宮、近辺の寺社仏閣など、本学近辺(古市エリア)の豊富な史跡を、人文社会学部 社会学科 田中講師のガイドを聞きながら巡りました。
(人文社会学部 社会学科 田中講師)
集合場所となった近鉄南大阪線 古市駅からスタート!
アカデミックツアーのルート
古市駅⇒東高野街道⇒高屋城関連史蹟⇒西琳寺⇒誉田八幡宮⇒古市古墳群⇒土師ノ里駅
高屋城関連史蹟について、各史跡を巡りながら様々な説明をお聞きしました。
・高屋築山古墳(安閑天皇陵)を城郭にしたもの。明応の政変以降、恒常的に城郭化されていった。
※明応の政変とは…室町幕府10代将軍足利義材(あしかがよしき、のち義稙(よしたね)と改名)が、細川政元・日野富子らに廃されて、代わりに義遐(よしとお、のち義澄(よしずみ)と改名)が11代将軍として立てられた事件。この事件により近畿は本格的な戦国時代に突入します。
・高屋築山古墳の概要
六世紀後半(古墳時代後期)築造の前方後円墳。
墳丘長122m 後円部直径78m 高さ13m 前方部幅100m 高さ12.5m
・城主:河内国守護畠山氏。応仁の乱で西軍の将であった畠山義就(よしなり/よしひろ)の子基家が築城しました。義就は近年では最初の戦国大名とも評される強大な力を持っていました。
・大きさ:南北800m 東西450m 同時期の中世城郭の中でも有数の規模で、1950年代までは土塁堀が残存、以降宅地化、九〇回以上の発掘調査が行われています。城全体に焼土層が出土しています。東西南北に櫓が設置されました。
・構造
Ⅰ郭(本丸)…高屋築山古墳(安閑天皇陵)の墳丘部。城になったため、墳丘は大きな改変を受けている。
Ⅱ郭(二の丸)…中国製輸入陶磁器、銭貨が出土している。
『足利季世記』「本城ニハ恐レテ、畠山殿モ二ノ丸ニ住シケル」
→当時の城主 畠山稙長は天皇陵であることを恐れて、普段は二の丸に住んでいました。
それに相応しい遺物も出土している。
Ⅲ郭(三の丸)…日常雑器が出土している。下級武士の居住地となっていた。
大永2年(1522)の火事で180軒焼失の記録が残っています。大規模な城内町が存在していました。
・街道の取り込み…城内に東高野街道を引き込み、戦闘用+政庁を兼ねた城郭を建築しました。
→古墳の二次利用、大阪府に特徴的、なかでも高屋城はかなり研究が進んでいる。
(高屋不動坂古墳。高屋城築城に関連して破壊され埋もれていたもので、最近の発掘調査で発見された。天井石が露出している。ちょうど古市の街から東高野街道を通って高屋城に入る本丸東北隅入り口にあたります。)
(高屋城本丸:安閑天皇陵古墳):現在は宮内庁が管轄しており中に入ることができず、外からのみ確認が可能となっています。)
(高屋城二の丸土塁:田中講師から説明を受けないと土塁とは気付けない感じです。)
西琳寺(古代寺院)について、東高野街道(古代官道)を交えた説明をお聞きました。
推古天皇27年(619)西文氏(かわちのふみうじ)の氏寺として創建、平安末には衰退しました。鎌倉時代に氏人らが大和西大寺の叡(えい)尊(そん)に別当職を寄進、律宗寺院として隆盛しました。氏人だけでなく周辺住人にも信仰される地域の寺へ変貌します。(「西琳寺文書」)
西琳寺に繋がる東高野街道は、叡福寺・野中寺など聖徳太子にまつわる信仰を伝える寺が点在しており、街道を通じて四天王寺にも繋がっています。
(西琳寺の山門)
(五重塔の心礎であり、重さは28トン!塔礎は飛鳥朝様式としては最大級のもの)
誉田八幡宮について説明をお聞きました。
・永享5年(1433)成立の『誉田宗廟縁起絵巻』は、室町幕府6代将軍足利義教寄進の絵巻物で重要文化財となっています。
この絵巻によれば、欽明天皇の頃創建、後冷泉天皇の頃に現在の社地に移転しています。
京都石清水八幡宮から八幡神を勧請したと伝わっています。
・永承元年(1046)「源頼信告文(こうもん)」…河内守源頼信がささげた願文。
「大菩薩の聖体(応神)は、忝くも某の廿二世の氏祖也」
→八幡大菩薩(応神)が、源氏の氏神とされ篤く信奉されています。
・建久7年(1196)源頼朝社殿造営、塵地螺鈿金銅装神輿その他の寄進(誉田八幡宮宝物殿)。源頼信の7世孫が頼朝、その一族が足利氏であることから、鎌倉・室町両幕府は誉田八幡宮を厚く保護しました。
・現在の社殿…拝殿が江戸時代初期のもので、軒丸瓦に葵の御紋が使用されています。源氏を称し征夷大将軍となった徳川家が源氏の氏神として誉田八幡宮に保護を与えたことを示しています。
(誉田八幡宮の拝殿)
(宝物館、中は写真撮影禁止のため外から)
今回は、誉田八幡宮での宮司さんから誉田八幡宮から応神天皇陵に向かう石橋のことや、誉田八幡宮と応神天皇陵の繋がりについてのお話をお聞きしました。
江戸時代までは誉田御廟山古墳の後円部に堂宇があり、9月15日放生会ではそこまで源頼朝寄進の神輿を担ぎあげて祭礼を行っていたが、明治時代以降陵墓指定されたため、現在は古墳外堤上で祭礼を行っていることなどを伺いました。
(応神天皇陵に架かっている急な石橋)
(宮司さんから話をお聞きしました)
古市古墳群について、それぞれの古墳ごとの説明をお聞きました。(誉田丸山古墳・誉田山古墳、古室山古墳など)
誉田丸山古墳は、江戸時代1848年に金銅製龍門透彫鞍金具などが出土しています。中でも馬具は日本最古級のものであり、一括して国宝に指定されており誉田八幡宮が所蔵しています。
国宝の金銅製龍門透彫鞍金具は、写真撮影禁止の宝物館にて管理されています。
(誉田山古墳は応神天皇陵とも呼ばれており、全国第2位の大きさを誇る巨大前方後円墳)
古室山古墳は、一般の人も立ち入る事が可能な三段築成の前方後円墳です。一番高い後円部では15.3mもあり、玉手山をはじめ葛城、金剛の山並みを一望のもとに見渡せることができます。梅、桜をはじめ、紅葉も美しく、古市古墳群めぐりで疲れた時は、一息入れるのにうってつけの場所です。
また、墳丘に登れる前方後円墳であることから子どもたちの遊び場所にもなっています。
(古室山古墳の高台から望む藤井寺市内)
【参加者の感想】
・高屋城に関連する史跡がこんなに沢山あるとは思わなかった。
・普段、何気なく通っていた道路が不動坂と呼ばれており、戦国時代には織田信長が高屋城攻めに通ったとことを知ると非常に感慨深かった。
・誉田八幡宮で宮司さんから貴重な話や、普段立入ることのできない場所に入れて良かった。
次回の開催につきましては、改めてお知らせいたしますので、皆様のご参加をお待ちしております。