(2019年11月11日)
10月26日(土)、本学学生の保護者の方を対象に、大阪初の世界文化遺産となった百舌・古市古墳群を中心に取り上げ、本学のメインキャンパスがある羽曳野・古市エリアを人文社会学部 社会学科 須原 祥二教授のガイドを聞きながら歴史巡りを行うアカデミックツアーを開催しました。
集合場所となった近鉄南大阪線 道明寺駅からスタート!
道明寺駅のすぐ横にある「道明寺合戦記念碑」。
1615年の大坂夏の陣で大和国(現在の奈良県)から進入する徳川方に対して、豊臣方が小松山(現在の玉手山公園一帯)で迎え撃った戦い。須原先生の解説の中で、この 道明寺合戦には、豊臣方の後藤又兵衛をはじめ、真田幸村、伊達政宗といった戦国武将の名前も登場 しました。
と皆さんワイワイとコミュニケーションを取りながら次の場所へ移動します。
次なる目的地となる道明寺天満宮・・・の少し南側にある「五重塔の礎石」に立ち寄り。
道明寺の寺伝では、6世紀に聖徳太子が開基となり土師八嶋の屋敷地に建立したとされ、その塔跡が残っています。 遺跡は市街地に埋もれてしまったため詳細は不明ですが、伽藍(がらん)は四天王寺式と推定 されているようです。
そして道明寺天満宮に到着して、みんなでお参り。
道明寺天満宮は、本来は道明寺と同じ場所で 菅原道真が祀られた ところからはじまりました。道明寺はもともと 古代豪族の土師氏の氏寺で、土師寺 と呼ばれていました。都から熊野や高野山へ詣でる貴族らがしばしば立ち寄ったそうです。全国でも 学問の神様として知られる菅原道真は、古墳の造営や維持管理で活躍していた土師氏の末裔 なんです!
また道明寺は、戦乱の時代に全焼してしまい、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などから保護を受けて復興が進んだそうです。
そして同じ境内には氏神として土師神社も祀られています。土師氏の先祖は、大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを促すために高天原から派遣された天穂日命(あめのほひのみこと)にはじまり、その一族である 野見宿禰(のみのすくね)と出雲の国から招かれた當麻蹶速(たいまのけはや)による力比べが相撲の始まり とされています。
この勝負に勝利した野見宿禰(のみのすくね)は、垂仁天皇に自ら提案した埴輪の制作に従事し、彼の子孫は土師(土を扱う技師)氏として奉仕するようになったと伝えられています。
さて道明寺天満宮の西側に位置するこちらも同じく「道明寺」。
明治時代に政府による神仏分離令をうけて、お寺だけが西の地に引っ越して現在の「道明寺」となり、従来の伽藍地は神社として今日の道明寺天満宮につながります。
ですので、 お寺としての「道明寺」はコチラが正解 です!
道明寺では、境内のかりんの木に絵馬が掛けられているのも珍しいと思います。
参加者の方より
という素朴な疑問は解決しませんでしたが、ちょうど外からワンちゃんがトコトコ境内を歩いてました。(道明寺さんで飼われている犬かもしれませんね。)
このように世界文化遺産に登録された「百舌・古市古墳群」の古市エリアですが、土師氏は古墳づくりで大規模な人員と資材運用が必要なため、 自然と渡来系氏族と交流し、中国や朝鮮の進んだ技術・文化を吸収し、飛鳥時代から外交官・留学生・学者を多く輩出 しています。
なので、土師氏の末裔である菅原道真が「学問の神様」と言われるのは納得ですね!!
埴輪などの土器作りを職掌とした古代豪族の土師氏で、古墳の造営・維持に深く関わりがあり、河内の土師氏の本拠地が土師ノ里~道明寺~古市にかけて歴史が詰まっています。
1つ隣の「土師ノ里」の駅名は、この土師氏が由来になっているんですね!!
道明寺の横には、オシャレなお店も並んでいますので、是非、足を運んでください。
一行は道明寺から東高野街道を南下して誉田八幡宮へ向かいます。
都が京都(平安京)に移り、空海が高野山をあたえられて入定し、京都と高野山の間を人と物が行き交うようになりました。こうしてできた交通路の一つが東高野街道。参詣の道としてだけでなく、 物流としての役割も非常に大きかった ようです。
途中、街道沿いにある「栗塚古墳」にお立ち寄り。 本当に住宅街に古墳が点在しているのが特長的。 そして到着しました「誉田八幡宮」。須原先生の解説に加え、宮司さんによる解説も行って頂きました。
誉田八幡宮の本殿は、戦国の兵乱で荒廃したところを豊臣氏、徳川氏によって復興されました。
また応神天皇陵古墳は墳丘長425mで古市古墳群最大となる前方後円墳で、5世紀初頭に造られたと考えられています。
応神天皇と同体とされる八幡神を主神とする神社で、 平安時代中期に源頼朝が寄進した神輿(みこし)が、最古級の「おみこし」の作例として国宝に指定 されています。年1回、応神天皇陵の墳頂に設けられた「奥宮」へ御神体を運ぶ祭礼に使用されたようです。明治時代以降、応神天皇陵が国家の管理下におかれると墳頂の社が撤去され、神輿も古墳の周濠までしか行くことができなくなったようです。
こちらが神輿をかついで「奥宮」へ向かう橋。非常に急な石橋で現在は保存の観点から使われていませんが、 特別に応神天皇陵の門前に入り、現在も続いている祭礼を解説 いただき、誉田八幡宮と応神天皇陵古墳の深い歴史や関わりを教えていただきました。
最後は境内にある宝物殿も拝観させていただき、お聞きした国宝の「神輿」を含めて実際に見学することができ、とても勉強になりました。
誉田八幡宮を後にして、応神天皇陵の脇道を通って、墓山古墳へ。
ご参加いただいた方に、途中にある「いちぢく畑」を見ながら羽曳野の特産品であることをご紹介。
墳丘長225mの大型前方後円墳で、古市古墳群の中でも有数の大型古墳。応神天皇陵があるため、大きく目立ちませんが、他エリアに墓山古墳サイズの古墳があれば、たいそうな豪族の墓と考えられる大きさです。
少し移動して、徐々に古市駅方面へ。
こちらは「翠鳥園遺跡」と呼ばれ、 旧石器時代末期の石器製作の場 だった遺跡です。
遺跡の東側にある 二上山やその近辺では、サヌカイトとよばれる石器に適した石材の産地 で、この場所に持ってきて、石器を製作していたと推測されています。
この遺跡は、石核(せっかく)という石材から作り出した破片の1つ1つのパーツが再現できるほど多くの資料が最終されたことで有名です。
続いては、白鳥陵古墳を訪れます。
墳丘長190mの大型前方後円墳で、前方部が大きく開く墳形で、前方後円墳としては後期のものにあたり、造られたのは5世紀後半と推測されます。大きな濠を擁し、古市古墳群のなかでも特に美しい古墳の1つと言われています。
ツアーに参加いただいた皆さん、どうでしょうか?綺麗に撮れましたか?
現在は、日本武尊(やまとたける)の墓として宮内庁にて管理されています。
そして古市駅を目指して一行は歩きますが、少し通り過ぎて東高野街道と竹内街道の交差点へ。東に歩けば奈良県へ、南に行けば熊野、高野山へと続きます。古市の町が物流の要衝だったことを物語ります。
最後は古市駅まで戻って、白鳥神社にて解散となりました。
13:00に道明寺駅を出発し、17:00に古市駅で解散となった第2回アカデミックツアー。
ご参加頂きました皆様も、歴史の探求から新しい発見があり、予定していたツアー内容を余すことなく全て巡ることができました。
~参加者のコメント~
皆様、健脚でご満足いただけました。
またの次回開催については、改めてお知らせいたしますので、皆様のご参加をお待ちしております。